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2018年6月13日 (水)

ヘイトとカウンター

書くのが遅いですし、私は最近ちょっと話題になっていたアニメ化中止事件については詳細を把握していないので、コメントは差し控えるとして。

ごく一般論として書きますね。

まず、小説でも漫画でも映画でも何でもそうなんですが、ヘイトとか差別を表現する手段として使用することは、断固として許されない。これは言うまでも無いことです。人道に対する罪、という言葉がありますが、ヘイト行為や差別は、基本的人権あるいは人間の尊厳に対する罪とでも言えるでしょう。

では、例えば差別的な言動をなす作者が居たとして、信念に基づきその作品を出版しない、その作品がメディアミックスにかかった時に出演しない、という選択肢も、当然ありです。それはその出版社/俳優等の、思想の自由の範囲内です。

ただ、これを本当にやろうと思うと、その作者の過去の全言動をチェックしなければいけなくて、段々自社/自分の中で整合性が取れなくなってくるリスクが極めて高い。そのことは承知して行動すべきだとは思います。

そして、ここから本題。確かに私個人の感想として、作品ではなく思想信条の部分が不快だから、早く消えてくれないかなと思う作家は存在します。個別には把握していないけれど、様々な分野のクリエイターの中にも、当然様々な差別的思想を持つ人は存在する。でも、そういう作者の手になる作品は存在しちゃいけないのか、と言われると、どうしてもそうは思えないんですよね。その、差別の部分を作品で表現していない限りにおいては。

〇〇な人間の作品は、存在すべきではない。

こんなことを簡単に言い出すと、その〇〇の範囲が急激に狭まっていくんですよ。前例があれば、人は簡単にそこへ至る心理的なハードルを外せます。そして、排除に慣れると寛容さを失う。ヒステリックになることに、抵抗を感じなくなる。

だから、今度はもしかしたら〇〇のところに「政権に批判的」って入るかもしれないし、「オタク」かもしれないし。

そうやって次々に対象を変えてつるし上げることが、段々当たり前になってしまう。それはとても怖いことだと思うわけです。

公の場で差別的発言をする。それは当然批判されるべきで、短期的に社会的な制裁を受けるのも仕方ない。でも、それを以て永遠に社会的に抹殺していいか? と言われば、それはやはりNOなわけですよ。作品も一緒。本音を言えば悔い改めて欲しいけれど、それは絶対に簡単なことではない。ただ、すくなくとも懲りて、頭の中で考える程度に収めて、社会とかかわっていって欲しい。作品を制作して欲しい。そして、その作品が優れたものであるならば、楽しみたいと思うんですよ。作者の思想信条に関わらず。

(まあこれも程度問題という話ですけどね。流石に某ハリウッドプロデューサーのレベルに達すると、永久退場でいいでしょう)

繰り返して言いますけど、ヘイト発言をする作者の作品は扱わない、っていう社是を掲げるのは、出版社の自由です。実際にやるのも自由。本当に徹底してそれが出来るならね。

でも、そんなことは考えもせず出版しておいて、騒動になったから出版するの止めます、過去の作品ももう扱いません、なんて場当たり的な行動を取るのは、絶対にやめて欲しい。

それはいつか、多分そう遠くない将来に、自分たちに対するカウンターになって返ってきます。その出版社に、ではない。出版業界に。表現の世界に。言論の自由というものに。

そのところを、深く自覚して欲しいと思う次第。

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